ファブリツィオ・デ・アンドレ
ファブリツィオ・クリスティアーノ・デ・アンドレはイタリアで名高い大物カンタウトーレ(シンガーソングライター)のひとりで、約40年間におよぶ音楽活動のなかで、13枚のスタジオ録音によるオリジナル・アルバムに加え、数枚のライヴ盤やコンピレイション盤などをリリースしている。ファブリツィオ・デ・アンドレが書いた多くの曲は、社会的な差別や体制への反抗、それに娼婦や社会的弱者について歌われており、その詩は批評家筋から高く評価されると共に、文学詩集として学校の教科書に収録されたり、マリオ・ルーツィのような大物詩人から称賛を受けたりしている。
日本では知る人ぞ知る的な存在でありながら、なぜか日本人の心の琴線に触れるファブリツィオ・デ・アンドレについて、簡単なバイオグラフィを含めながら諸作を紹介してみたい。ファブリツィオは親しみを込めて「ファーベル」という愛称で呼ばれることがある。これは子供の頃にファーベル=カステル社の筆記用具を愛用していたことから、幼馴染のパオロ・ヴィラッジョが、ファブリツィオの名前に掛けて命名したものだ。ジェノヴァ出身のヴィラッジョは後に俳優やコメディアンの職に就いた人物で、若き日のファブリツィオと曲作りを共にしたこともある。
ファブリツィオは1940年2月18日にジェノヴァの西側にある街ペーリに生れた。デ・アンドレ家は父ジュゼッペ、母ルイザ、4歳年長の兄マウロという家族構成で、ジェノヴァには戦前から居を構えていたが、戦争中はピエモンテ州アスティの農場に疎開、終戦後再びジェノヴァに戻った。ジュゼッペは反ファシスト派でパルチザンに加入しており、戦後はジェノヴァの副市長(イタリア共和党所属)を務めた後、地元の製糖会社エリダーニアのCEOを経て会長職に就任、またジェノヴァ展示場(フィラ・デル・マーレ)の建設を推進し初代取締役を務めるなど、同地ではかなり重要な人物だった。ルイザの実家も裕福な家系でワイナリーを経営していた。マウロは後に弁護士になったが、弟の熱心なファンであり批評家でもあった。
ファブリツィオが音楽から受けた最初の影響は、父からフランス土産に貰ったレコードで、シャンソン歌手ジョルジュ・ブラッサンスの歌からだった。また初めて習ったヴァイオリンに次いで、14歳の時には母からギターを買ってもらい、コロンビア人教師アレックス・ジラルドによるレッスンを受けている。初舞台は55年のカルロ・フェリーチェ劇場におけるチャリティショウへの出場で、ザ・クレイジー・カウボイ&シェリフ・ワンというグループの一員としてバンジョーを演奏した。
子供時代は問題児で教師とぶつかることも度々だったが、59年に地元のコロンボ古典高校を卒業しジェノヴァ大学に進学、兄に習い法学を専攻し弁護士を目指した。しかし試験をクリアできずドロップアウト、同時期にアルコール依存の問題も抱え始めた。弁護士から音楽の道へ方向転換を決意したファブリツィオは、ルイジ・テンコ、ウンベルト・ビンディ、ジーノ・パオーリなどのジェノヴァ派カンタウトーレとも頻繁に交流していた。61年には地元のボルサ・デ・アルレッキーノ(57~62年まで続いた革新性のある実験的な舞台プロジェクト)に出演し、Nuvole barocche(バロック雲)を歌っている。自作曲ながらドメニコ・モドゥーニョの Volare(ヴォラーレ:サンレモ音楽祭58年の優勝曲)の影響下にあり、まだ独自のスタイルを確立していない。
61年の秋にカリム・レーベル(父ジュゼッペが出資者のひとり)で初めてのレコーディングを行い、ファーストシングルとして Nuvole barocche をリリースしている。カップリングされた E fu la notte(夜になって)はレトロ趣味の50年代風な作品で、ファブリツィオはこの2曲を若書きの失敗作と見なしている。またこの頃ファブリツィオは娼婦と付き合っていたが、友人の紹介により、ジェノヴァ出身で7歳年上のジャズ愛好家エンリカ・リニョン(愛称プーニ)と交際を開始した。62年7月に彼女の妊娠を機に結婚し、同年末に息子のクリスティアーノが誕生している。当時ファブリツィオは家計を支えるため、父親が運営する研究所の管理部主任の職(また一説には教職)に就いていた。
一方で音楽活動も引き続き行っており、61~66年の間にカリム・レーベルから、ファーストを含めて10枚のシングル(曲数で18曲)をリリースしている。そのなかで、64年に実際の事件を元に書き上げた La canzone di Marinella(マリネッラの歌)は、4年後にイタリアの歌姫ミーナが大ヒットさせたことで、ファブリツィオの名前を世間に広く知らしめるきっかけになった。66年にカリム時代のシングル10曲をまとめた、初のアルバムとなる編集盤 Tutto Fabrizio De André(ファブリツィオ・デ・アンドレの全て)を発表、69年には続編 Nuvole barocche(バロック雲)をカリムの後釜レーベルRRC(カリムは66年に倒産)よりリリースしている。しかし編集盤でない実質的なファーストアルバムは、ミラノを本拠地とするブルーベル・レコードが制作した Volume 1 である。