Spencer Davis
Birth Name : Spencer David Nelson Davis
Born : 17 Jul. 1939 (Bon-y-maen, Swansea, Wales)
Died : 19 Oct. 2020 (aged 81)

スペンサー・デヴィッド・ネルソン・デイヴィスは、1939年7月17日に英国サウスウェールズのスウォンジー・ボンアマインにて誕生。学生の頃はかなり優秀な生徒で、16歳にして就職資格を得る試験にパスしロンドンで公務員の職に就いた。またその頃初めてレコーディングを経験しており、バディ・ホリーの Oh Boy と Midnight Special をSP盤で制作している。その後地元に戻りさらに高度な学業を修めて主席で卒業、60年からはバーミンガム大学でドイツ語など各種言語を専攻した。その傍らスペンサーは地元のパブで音楽活動も続けており、ギターとハーモニカを演奏しながらフォークやブルーズ、R&Bを歌っていた。また当時のパートナーだったクリスティン・パーフェクトと、12弦ギターとピアノによるフォーク・デュオを組んだり、イアン・キャンベル・トリオとセッションをすることもあった。当時出入りしていた地元パブのゴールデンイーグルにはマフ・ウッディ・ジャズ・バンドがいたが、スペンサーはそこでピアノをプレイする少年スティーヴ・ウィンウッドに惚れ込み、一緒にバンドを組むことを提案した。スティーヴとその兄のマフ・ウィンウッドはこれに賛同し、地元のジャズバンドでドラムズを叩いていたピート・ヨークを加えて、63年4月にリズム・アンド・ブルーズ・カルテットを結成した。まもなくスペンサー・デイヴィス・リズム・アンド・ブルーズ・カルテットと呼ばれるようになった彼らは、パブなどで精力的にギグを行い人気を博し、64年2月にはバーミンガム・タウンホールで開催されたファースト・リズム&ブルーズ・フェスティヴァルの出演も決めている。
1964年にカルテットはアイランド・レコードと契約を交わし、スペンサー・デイヴィス・グループと改名、スペンサー・デイヴィスはそのリーダーとしてプロデビューを果たした。スペンサー・デイヴィス・グループは、Keep On Running や Gimme Some Lovin’ などの大ヒットにより人気グループとして注目されたが、67年の最盛期にスティーヴとマフのウィンウッド兄弟が脱退したため、グループはメンバーの変更を余儀なくされた。第二期スペンサー・デイヴィス・グループは、新たにフィル・ソウヤーとエディ・ハーディンを加えた4名で再スタート。同年に映画のサントラ盤 Here We Go Round The Mulberry Bush の録音に携わり、アルバム最多の7曲を提供している。その後ソウヤーの脱退に伴いレイ・フェンウィックが新たに加わり、68年にアルバム With Their New Face On をリリース、この2枚からの代表曲にシングルを追加した編集盤が Mulberry Bush のタイトルで組まれた。収録曲の Don’t Want You No More はオールマン・ブラザーズ・バンドがカヴァーしたことでも知られている。68年後半にヨークとハーディンがデュオとして活動を開始したため、スペンサーは新メンバーを補充しアルバム制作を試みるがリリースまでに至らず、翌年グループは解散を迎えた。解散後は渡米しカリフォルニアで新たにバンドを組んだり、プロデューサーやA&Rの仕事のほか、一説では6カ国語に精通していたという達者な語学力を生かして、技術翻訳の仕事などもしていたようだ。
1973~74年にはピート・ヨーク、エディ・ハーディンにベーシストのチャーリー・マックラケンを加えて、スペンサー・デイヴィス・グループの再結成を果たし、Gluggo と Living On A Back Street の2枚をリリース。84年にはダスティ・スプリングフィールドなどをゲストに招き、ソロアルバム Crossfire の制作や、ピート・ヨークとコリン・ホジキンソンの3人でライヴも行っている。Live Together はその中のドイツ公演を収録したもので、Keep On Running や Gimme Some Lovin’ なども披露している。スペンサーはその後も音楽活動を続けており、グレイトフル・デッドやゲイリー・USボンズ、ブルース・スプリングスティーンらのコンサートへのゲスト出演も果たしている。93年には元アイアン・バタフライのマイク・ピネラや、元シュガーローフのジェリー・コルベッタらとクラシック・ロック・オールスターズを結成、スペンサーは約2年間活動を共にしライヴアルバムを制作している。また96年秋にもカーマイン・アピス、デニー・レイン、ランディ・マイズナー、マイケル・モナークらとワールド・クラシック・ロッカーズを結成している。97年にはソロアルバム Keep On Running をリリース、スペンサー・デイヴィス・グループのヒット曲などをベニー・デリンジャーやリッキー・ホルムズらをバックに再演した。2000年代もスペンサー・デイヴィス・グループなど精力的な活動を続けており、08年には全曲書下ろしによるソロアルバム So Far をリリースしている。
スペンサー・デイヴィス・グループは、1967年4月に脱退したウィンウッド兄弟に代わり、新たにギターのフィル・ソウヤーとキーボードのエディ・ハーディンを迎えて、ユナイテッド・アーティストと契約して再スタートを切った。67年の初夏には新曲 Time Seller と Don’t Want You No More を録音し7月に再編後初のシングルとしてリリース、また同セッションでは映画のサントラ盤 Here We Go Round The Mulberry Bush 用の曲もレコーディングしており、これは翌年1月に発売されている。その後ギタリストがフィル・ソウヤーからレイ・フェンウィックに代わり、67年12月にセカンドシングル Mr. Second Class を Sanity Inspector とのカップリングでリリースした。翌年の4月には既発売のシングル4曲を含む、オリジナル曲のみによるアルバム With Their New Face On をリリース、先行シングルとして3月にアルバム未収録曲の After Tea を発表している。
しかし1968年10月にメンバー二人がデュオのハーディン&ヨークを結成するために脱退。スペンサー・デイヴィス・グループは新たにベーシストのディー・マレイとドラマーのデイヴ・ハインズを迎え、12月にシングル Short Change をリリースした。ほどなくドラマーがナイジェル・オルソンに代わり、69年にアルバム Letters From Edith の制作を開始するが、何らかのトラブルでリリース後に回収(あるいは未発売)となりグループは活動停止を余儀なくされた。この作品は翌年に米国にて Funky のタイトルでCBSのサブレーベルからリリースされたようだが未確認。73年にはピート・ヨーク、エディ・ハーディン、レイ・フェンウィックがグループに復帰、ベーシストのチャーリー・マックラケンを加え、スペンサー・デイヴィス・グループは再結成を果たした。このメンバーで同年 Gluggo、翌年 Living On A Back Street の2枚のアルバムをヴァーティゴ・レーベルからリリースしている。
後期スペンサー・デイヴィス・グループの音源は各種CD編集盤でも聴くことができる。1999年にイーグル・レコードが編纂した2枚組 With Their New Face On: The Masters には、RPMよりすでにCD化済みのサントラ盤 Here We Go Round The Mulberry Bush を除く、後期スペンサー・デイヴィス・グループの作品3枚と、アルバム未収録のシングル曲、未発表音源などを含む全40曲が収録されている。また2001年にワンウェイ・レコードからリリースされた Funky には、お蔵入りとなったアルバム Letters From Edith 全曲に加え、ライヴやセッション音源などをボーナストラックとして収録している。加えて Mojo Rhythms & Midnight Blues にも数曲収録されているほか、Gimme Some Lovin’ Live 1966 ではドキュメンタリーフィルムを観ることができる。