Chris Wood
Birth Name : Christopher Gordon Wood
Born : 24 Jun. 1944 (Quinton, Birmingham, England)
Died : 12 Jul. 1983 (aged 39)

トラフィックの吹奏楽器奏者で、サックスとフルートに加えてオルガンも演奏していたクリストファー・ゴードン・ウッドは、1944年6月24日にバーミンガム郊外のクイントンで誕生した。幼少の頃から音楽と美術に強い興味を持っており、15歳の時に観た映画「真夏の夜のジャズ」に登場するエリック・ドルフィのフルートに感動し、間もなくフルートを独学で吹きはじめた。その後クリスは美術系の学校に進学するが音楽への情熱も捨てきれず、クリスティン・パーフェクト、カール・パーマーら地元バーミンガムのミュージシャンとジャムセッションを楽しんだり、マイク・ケリーらとロコモーティフなどのバンドで活動していた。またジム・カパルディが在籍していたディープ・フィーリングにセッション参加したこともある。クリスにスティーヴ・ウィンウッドを紹介したのは、スペンサー・デイヴィス・グループに服やアクセサリーをデザインしていた妹ステファニーだった。二人は意気投合しジャムセッションをはじめるが、日本の伝統音楽を含め多用なジャンルに関心があり、芸術家肌で考古学、地質学、野鳥観察、地図製作などさまざまな事柄に知識を持っていたクリスは、スティーヴから兄のように慕い尊敬されていたようだ。
クリス・ウッドは1967年にスティーヴの誘いでトラフィックの結成メンバーとなり、74年に解散するまで全てのアルバム制作に携わった。初期トラフィックの多様な音楽ジャンルをミックスした方向性は、クリスの幅広い音楽的知識が大きく影響していたと思われる。70年にトラフィックとしての活動を再開した際も、クリスは英国のフォークグループ、ザ・ウォータースンズのレコードをスティーヴに紹介した。そこからトラッドナンバーの John Barleycorn をアレンジして録音したが、これはトラフィックの代表曲のひとつになっている。それにアルバム Shoot Out At The Fantasy Factory とライヴ盤 On The Road には、トラフィックで唯一のクリス単独作のインスト曲 Tragic Magic が収録されている。トラフィック以外ではジミ・ヘンドリクスと交流があり、68年のニューヨーク・セッションやアルバム Electric Ladyland のレコーディングに参加していた。スティーヴがブラインド・フェイスとして活動していた期間は、ジム・カパルディやデイヴ・メイスンらとバンドを組んだり、ドクター・ジョンのツアーに同行している。また米国女性グループのザ・ケイクのメンバーだったジャネット・ジェイコブズと、ヘンドリクスやドクター・ジョン・バンドを通じて知り合い、ジンジャー・ベイカーのエア・フォースで共演した後、72年に結婚している。
トラフィックのメインメンバーとして活躍する一方で、クリス・ウッドは次第にアルコールとドラッグの依存症に陥りはじめ、1974年前後のステージでは、観客と諍いを起こすなどその影響が実生活にも現れ始めていた。トラフィック解散後の75年頃には健康状態はかなり悪化していたが、クリスはセッション・ミュージシャンとして活動を続けながら、バーミンガムのレコーディング・スタジオなどで、ソロアルバム Vulcan の制作を行っていた。しかしその出来映えに満足できなかったことや、健康上の問題から完成までには至らなかった。81年にジャネット・ジェイコブズが持病のてんかんによる発作で32歳の若さで死亡、彼女とはすでに別れていたがそのショックは大きく、肝臓を悪くしていたクリスもその後を追うように、83年7月にバーミンガムの病院で息をひきとった。直接の死因は肺炎だったが、アルコールやドラッグの影響は大きかったといえる。クリスの未完成だったソロ音源は2008年にまとめられ、Vulcan のタイトルでリリースされたほか、94年のトラフィック再結成アルバムでクリスに捧げられた Far From Home には、彼のフルートのサンプリング音源を取り込んだ Nowhere Is Their Freedom が収録されている。また近年リリース予定のアンソロジー集 Evening Blue に先駆け、2015年には公式ページにて1978年の未発表インスト曲 Song For Pete がダウンロードできる。同曲はクリスの友人でジム・カパルディのバンドメンバーとしてもお馴染みの、ギタリストのピート・ボナズに捧げた曲。
本作はクリス・ウッドがトラフィック解散後に制作を進めていた唯一のソロアルバムであるが、生前には完成に至らず没後四半世紀を経て音源がまとめられ、2008年にエソテリック・レコードからリリースされた。タイトルはフランスの天文学者ルベリエが提唱した未知の惑星の名から取られたというが、これは天文学や占星術に興味を持っていたクリスにふさわしいネーミングといえる。クリスがソロアルバムも視野に入れて単独で作曲を試みたのは、トラフィックとして活動していた1972年頃からだったという。クリスはトラフィックのラストアルバム When The Eagle Flies セッションに、ボレロのリズムを取り入れたアップビートの Moonchild Vulcan と、むせび泣くサックスが心の苦しみを訴えるかのような Barbed Wire の2つの自作曲の音源を持ち込んだ。74年のヨーロッパ・ツアーで既に演奏実績があった前者は、そのライヴヴァージョンがアルバムに収録される予定だったというが、最終的にはウィンウッド=カパルディ作の Memories Of A Rock ‘n’ Rolla に差し替えられた。結果的にトラフィックのアルバムに収録されたクリスの単独作品は、Barbed Wire と雰囲気が近いインストナンバーの Tragic Magic のみとなった。
1974年のトラフィック解散後、クリス・ウッドはアルコールとドラッグ依存症の影響により、ソロアルバムの制作が思うように進まず、ロンドンのアパートで隠遁生活を送っていた。しかし翌年にブランドXのメンバーになり損ねたギタリストのピート・ボナズと出会い、住まいに困っていた彼をアパートに招いた。そしてボナズの後押しを受けて音楽活動を再開させたクリスは、この時期に自宅で2曲のデモレコーディングを試みている。それがテナーサックスとギターによる二人の共作曲 Letter One と、Barbed Wire のテーマをフルートとギターだけで演奏したアコースティック・ヴァージョンである。このほかにもクリスとボナズは、未完のままお蔵入りになっていたトラフィック時代の音源 Barbed Wire に、ギターとホーンをオーバーダビングし完成させている。またクリスは76年末に若きキーボーディストのフィル・ラマコンと出会い、ドビュッシーやラヴェルなどクラシックの話題で意気投合した。二人は幻想的でワールドミュージック風の Indian Monsoon と、より実験的なサウンドの Birth In A Day を共作しレコーディングしている。
1977年のある時期、ラテンロック・バンドを率いるベネズエラ出身のホルヘ・スピテリは、アイランド・レコードのスタジオでリハーサルを行っていた。丁度そこに居合わせたクリス・ウッドは、彼らが Cinnamon Girl と名づけた曲を大いに気に入り、トラフィック時代に愛用していたアルトフルートでセッションに加わった。柄にもなくクリスはこの共演で盛り上がり、曲のタイトルを頭韻により See No Man Girl と改名し、クレジットに名前が加わるほどアレンジを施したという。牧歌的で優雅なジャムが10分に渡り繰り広げられるこの曲は、クリスにとってトラフィック以外での最も大きな成果となった。またスピテリ・バンドとの繋がりからウェイラーズのキーボード奏者タイロン・ダウニーとも親しくなり、気ままにジャムセッションを楽しんだり、クリスのフルートとダウニーのピアノによる Sullen Moon のデモ・レコーディングを行った。クリスにとってスピテリ・バンド周辺との諸活動は、トラフィック以来の充実したひと時となり、トラフィック時代のアウトテイク Moonchild Vulcan を、スピテリらの協力を得てアレンジを施し再録音して完成させている。クリスが最高傑作として大切にしていたこの曲は、生き生きとしたレゲエやラテンの風味が加えられ、トラフィック・ヴァージョンに欠けていた輝きを伴って蘇演された。
アルバム最後の Wood’s Bolero は、1974年3月25日のパリ・オリンピアにおけるトラフィックの貴重なライヴ音源で、ホルヘ・スピテリ・バンドと再演した Moonchild Vulcan の原曲である。この音源そのものが When The Eagle Flies の収録候補だったかどうかは不明だが、ブックレットには Vulcan の音源を保管していたことに対して、スティーヴ・ウィンウッドとゴードン・ジャクソンに謝意を示す表記がある。